おいしい本が好き

本の中の食べ物はおいしそうに見える。

「金のがちょう」、あるいは黄色い絵本

 

金のガチョウ (グリム絵本)

金のガチョウ (グリム絵本)

 

 

空とぶカバン ほか5へん オールカラー版世界名作 (イソップ・グリム・アンデルセン(1))

空とぶカバン ほか5へん オールカラー版世界名作 (イソップ・グリム・アンデルセン(1))

 

 高校1年生の秋、古い古いあの借家を出た。といっても次は今までよりは新しいけれど、今までよりもずっと狭いアパートの部屋だったので、私たち家族はずいぶんとたくさんのものを処分した。

そのときは、そういうものかと思って、ほいほいと処分した。絵本を何冊も何冊も処分した。ひもをかけて、ぎゅっと縛って。

あれから20年近く経って、自分の選択に後悔する。後悔しかない。どうしてあんなに愛していたあの黄色い絵本たちを捨ててしまえたのだろう?何を手放しても持っていくべきだったし、できないなら祖父母に頼み込んで物置の隅にでいいから置かせてください、と守るべきだった。今でも、今になって、こんなにも読みたくなるなんて。

国際情報社「世界名作イソップ・グリム・アンデルセン」全18巻は箱入りで、つるつるした手触りの心地いい、美しい絵本だった。箱と背表紙は鮮やかな黄色で、私はそれを「黄色い絵本」と呼んでいた。素足のひざこぞうにのせて開けば、冷たくて気持ちよい。部屋のすみで夢中で読んだ。

カバンにのって空を飛び、お菓子の家をぼりぼりかじり、赤い靴を履いて踊った。イラクサをふんで糸にしてシャツを編み、小ビンのふたを開けて悪魔を自由にした。

「金のがちょう」も、この絵本で初めて読んだ。

 

なんといっても冒頭のお弁当のシーンが好き。しかし、きこりのお父さんに代わって木を切るべく森へ行く上のにいさんにも2番目のにいさんにも、お母さんは「上等のたまごがしとぶどう酒を一本」持たせてくれるのに、3番目の末の息子が持たされたのは「水だけ入れて、はいの中で焼いた」菓子と「すっぱいビールが一びん」なのである。しかも呼び名が「とんま」。ひどい。

さて、森で出会った小人に弁当を分けてくれるよう頼まれた兄さんたちは、自分の分がなくなるじゃないかと断った挙句、腕や足に大けがをして帰ってくる。そこで末の息子が粗末な弁当を持って森へ行く。同じように小人に頼まれた末の息子は自分の弁当は粗末だが、それでよければ一緒に食べようと包みを開く。中身はなんと、「上等のたまごがし」と「いいぶどう酒」に変わっていた。

これを書くためにいま手元に用意したのは「少年少女世界文学全集 ドイツ編⑵ グリム童話集」(講談社、昭和38年)なのだけれど、黄色い絵本とは文章がやはり違う。もう手元にないからうろ覚えなのだけど、末の息子が持たされるのは「カビのはえかけたパンとすっぱいおさけ」で、変わった後は「あまいたまごのおかしとじょうとうのぶどうしゅ」だったと思う。これが好きだったのだ、「あまいたまごのおかし」。なんだろうなあ、どんなんだろうなあ、と考え、私の中では「ちょっと時間がたってザラメがういてきてしゃりしゃりするカステラ」がそれである。最高においしい、あまいたまごのおかし。

 

でももしも、上のにいさんや2番目のにいさんが先に弁当を分けていたら、がちょうとお姫様をもらうのはにいさんだ。もしくは3番目が兄さんたちと同じように、最初からおいしい弁当を持っていたらどうだったろう。彼は気持ちのやさしい人間だから「いいよ、お母さんのおべんとうはうまいのさ」とかいいつつ小人と食べることになるのだろうか。あるいは彼もにいさんと同じ反応をするだろうか。

「とんま」だけれど「気持ちのやさしい」末の息子というのはあくまでそう語られているだけなので、末の息子が腹のなかでほんとうは何を考えていたかなんてわからない。事実としては、お腹をすかせた小人にお弁当を分けてあげた、たったそれだけ。もしも「粗末な弁当だからこそ分けるのも惜しくなかった」のだとしたら、彼はただただ幸運だ。がちょうをもらい、王様からの無理難題を全て小人に解決してもらい、お姫様と国を得て王様になるというんだけど、彼自身の能力も努力も何も描かれないまま。小人なしで大丈夫なのか。この先王様業に苦労しないとも限らない、やさしいだけじゃどうにもならないこと、あるし。でも案外したたかなところもあるかもしれないし……

 

ちなみに前述の昭和38年刊行の文学全集も、数年前に祖父母の家を断捨離するときに候補にあがり、そんなの絶対ダメ!ほしい!もらう!と言ってもらってきた。母が子どもの頃、祖母が揃えたものだという。開くとほこりやお線香や、祖父母の家の成分が混ざり合った、古い本の匂いがする。